――けれど朱華はもう、ここのつの幼子ではない。
「それまでにあたし、記憶を思い出す。それで、里桜さまとともに竜神さまを起こすから!」
未晩に甘やかされたまま、怖い夢や漠然とした不安など、いままで彼が飼っていた闇鬼にぜんぶあげていたけれど。
それじゃあいけないんだとぎゅっと拳を握りしめる。「そしたら、戻ってきたちからを使って大樹さまを探すお手伝いもするし、竜神さまに認められる花嫁になれるよう修業も頑張る!」
目の前にいる彼に誓いたかった。迷惑だと思われても、声にだしてこの決意を伝えたかった。竜神が眠りにつく前から守人をしている彼のために、心の底から役に立ちたいと思ったのだ。
「お前……なぜそこまで」
困惑する表情の夜澄を見ても、朱華の気持ちは変わらない。彼が自分たちの『雲』の民を見捨てたことを後悔している姿を、責めるのは見当違いだ。そんなことをしても死んでしまった命は還らないのだ。それならいま、自分にできることをして、雲桜のような悲劇を防ぎたい。
「なぜって。もう誰にも死んでもらいたくないからよ?」
当然のように返す朱華に、夜澄が呆気にとられている。
もう誰にも死んでもらいたくない。朱華の心の奥底から自然と湧きあがるように生まれた言葉。 それは記憶がない状態でも、揺らぐことのない、本心だった。「――ならばまずは、お前が真実(まこと)に桜蜜を分泌させる処女(おとめ)たるか、この場で確認させてもらおう……下衣を脱いでくれ」
「……えっ」そんな朱華の覚悟を前に、夜澄が申し訳なさそうに宣言する。
そして、座っていた椅子から立ち上がり、朱華に被せていた己の上衣を剥ぎ取り、脚をひろげさせる。 恥ずかしい格好のまま、下半身を晒せと命じられ、朱華は目をまるくする。けれど、竜神の花嫁になるためには必要なことなのだと理解し、菫色の瞳を潤ませたまま、言われるがままに下衣をおろす。 夜澄によって治療された場所が、妙に疼く。「さわるぞ……まずはちいさくて可憐な花の蕾から」
「……あっ、そこはだめっ…* * * 「それだけですか?」 「夜澄が彼女の面倒をみてくれるというのなら、あたくしがしゃしゃりでるのもどうかと思うわ。守り人が神嫁を教育すること自体、別におかしなことはないでしょう?」 里桜は神殿内で闇鬼に堕ちた人間が現れた報告を颯月から受け、ついに来たかと嘆息する。しかも裏緋寒の乙女として迎えたばかりの少女を殺そうとしたという。桜月夜によって辛うじて難を逃れたというが、この先も同じようなことが起きる可能性は高い。土地神の花嫁となるものなど、幽鬼にとってみれば邪魔でしかない。彼女の正体が知れれば、眠ったままの竜頭より先に葬ろうとするだろう。 そこで夜澄が珍しく自ら彼女の護衛につくと言いだしたらしい。ふだんは厄介なことほど星河や颯月に押しつけてふらふらしているくせに、と反発を覚えながらも、桜月夜のなかでいちばん強いちからを持っているのは彼だったなと里桜は思い直し、素直に受け止める。彼が裏緋寒の乙女を護る気でいるのなら、任せた方がいいだろう。竜頭の花嫁となるであろう少女だ、意地悪などしないと思いたい。 だが、颯月はすこしばかし不満らしい。たしかに、大樹が不在のなかひとり代理神を務める里桜よりも裏緋寒の乙女を優先する姿は、神殿内でも疑問の声があがるだろう。このまま彼が裏緋寒の乙女を自分のものにするのではないかと危惧する声がでてくるのも時間の問題かもしれない。きっと颯月もそう思ったから、里桜に意見したのだ。 裏緋寒の乙女が眠りから醒めた竜神の花嫁にすんなりおさまるためにも、夜澄ひとりにまかせっきりにするのが不安だから、颯月は里桜の前で途方に暮れた顔をしているのだ。「でも……」 「颯月。あなたは夕暮れまで引き続き大樹さまの居場所をあたってみてほしいわ。『風』の加護を持つあなたしか、長い時間集落の外をでて動くことができないのだから」 桜月夜だからといって、常に一緒に行動する必要はない。それぞれが持つ加護のちからを最大限に生かして、この危機的状況を打開する方が大切である。 それに、過去を知る夜澄が過激な花嫁修業をひとりで担ってくれることに、どこかでほっとしている自分もいた。土地神と契る
「どう思う?」 「……なんで振るんですかわたしに」 朱華を襲った巫女を地下牢へ入れたのち、里桜への報告のため颯月とともに訪れた星河だったが、ほとんど言いたいことは言われてしまった。残された星河は里桜の言葉を受けて、硬直している。「客観的に物事を分析するためにあなたの意見もききたいと思ったのよ」 「そうですか」 なかば諦めたように星河は笑う。自分より十近く年齢の離れた少女に言われても説得感があるのはやはり選ばれた代理神の半神だからだろうか。「ですが、わたしがどう思おうが、里桜さまはそのままでいいとお考えでしょう?」 裏緋寒として神殿に入った朱華には自分の加護に関する記憶が失われていたという。カイムの土地神の加護のことを、逆さ斎の里桜は浅くしか知らない。大樹がいないいま、知識を与える適任者は竜頭が起きていた頃を知る夜澄しかいないのも事実だ。里桜は頷いて、話を変える。「はぐれ逆さ斎が記憶を改竄したんですって? 至高神に逆らってまで、彼女を自分のモノにしようとしたなんて……」 それともこれも、至高神が采配を施しているのだろうか。いまここに大樹がいれば真意を問えるのに。里桜は悔しげに口元を歪める。「その逆さ斎なら、颯月が瘴気を払っております。問題はないかと」 「大ありよ! 代理神が不完全ないま、瘴気を払って放置しただけなんでしょう? ……すでに竜糸の結界は綻んでいる。払っても払っても根本を断たなければ同じことを繰り返す可能性がある……もし、裏緋寒を諦めきれずに彼が自ら闇鬼のために瘴気を取り込んだら?」 相手は逆井の姓を持たないとはいえ、自分と同じ逆さ斎だ。ひととおりの術式も扱えるに違いない。記憶まで操ることが可能なことを考えると、至高神に預けられたちからを持つ朱華を保護していたという未晩はかなりの術者のようだ。まぁ、それだから裏緋寒の番人として至高神に重宝されたのかもしれないが…… そんな未晩が、神殿に乗り込んできたら……大樹がいない、竜頭が眠ったままの状態で対抗するのは厳しいだろう。そう指摘されて、星河の表情が青くなる。「……それは」
* * * 神殿の離れにあるこぢんまりとした室(へや)が、朱華が身を置く場所になった。ちいさいながらも装飾は凝っており、真珠の粉を混ぜ合わせたような白い光沢感のある壁には姿見のようにおおきな円形の窓がつけられている。蔦模様の窓枠のなかへ手をのばせばそこは空洞になっておらず、空気のように透明で薄い玻璃が膜を張っているかのように填めこまれているのが確認できた。窓の向こうには竜神が眠る湖と蕾から花へと姿を変えつつある白や薄紅色の菊桜の樹々がよく見える。 外つ国より海を渡ってやってきた硝子細工はまだ高貴な人間にしか許されない、珍しいものだというのに、竜糸の神殿では至る所に硝子が使用されている。壊さないように気をつけなければと場違いなことを思いながら朱華は備え付けの寝台の上へさきほどまで着ていた衣を脱ぎ捨てていく。 さきほどの身体検査などまるでなかったかのように夜澄は自分に接しているため、朱華もひとまず気にしないようにふるまっている。さすがに自分の秘処を舐められるとは思ってもいなかったけれど…… そんな夜澄は朱華のことを雨鷺に頼んで、室の外の扉の前で待っている。 軽く夕食をいただいてからあらためて雨鷺に身支度を手伝ってもらった朱華は、いっそう華美な猩々緋(しょうじょうひ)の糸で刺繍された菊桜が咲き誇る月白(げっぱく)の袿に着替える。 「……なに?」 「いや。馬子にも衣装だ……」 「悪かったわね!」 着替えを終えた朱華は夜澄に連れられて神殿へ戻る。そして代理神が座す湖畔の間に入った。 硝子が張り巡らされた壁の向こうには、竜神が眠る湖と、湖に反射しながら煌々と輝く銀のふたつの月がゆらめきながらも鋭い刃物のように交差している風景がのぞめる。その月明かりに照らされるように、室内もまた、ゆらぎと淡いひかりを帯びている。陽が沈んだとはいえ、月のひかりが存分に入るこの空間は、夜を忘れさせるほど、眩しかった。 遠目から見ても鮮やかな袿姿の少女が、朱華の姿に気づき、顔をあげる。 朱華は俯いた状態で一歩一歩、夜澄に手を引かれながら、しずしずと里桜の前へ進んでいく。
白い桜の花びらが風に舞い、視界を遮断する。 沈みゆく西陽のあかいひかりがその光景に加わり、周囲は真紅に燃え上がる。 桜の甘い芳香にむせながら、幼い少女は傷ついたちいさな蛇を掌のうえにそっと乗せて言葉を紡ぐ。「Eyaitemka hum pak pak――恢復せよ、小さき雷土(いかづち)の神の御子(こ)よ」 ――蛇は竜神さまの御遣いだから、殺してはいけないの。 亡き母が子守唄のように口にしてくれた神謡(ユーカラ)が、脳裡で甦る。 とっさに声にだした呪文が正しかったか、少女に自信はない。 けれど、目の前でいまにも息絶えそうなちいさな白い蛇を見た瞬間、はやく助けないと間に合わないと判断したから、少女は土地神が与えてくれた加護のちからを発動していた。 それは、白い山桜に囲まれた集落、雲桜(くもざくら)に暮らす『雲』の部族だけが持つ古(いにしえ)民族が残した神謡の断片。 集落では滅多やたらと使ってはいけないと戒められているけれど、いまは危急を要する時だからと少女は思いなおし、ぴくりともしない蛇にちからを注ぎつづける。 おとなに見つかったらたかだか蛇にそのようなちからを使うものではないと叱られ、座敷牢で数日罰せられる。そうはわかっていても少女はやめられなかった。 ――おねがい、起きて! この、ちいさな蛇の命をたすけたい。 もう、自分の前で死んでいく姿を、見たくない。 病に倒れた母を治癒術で救えなかったあの時みたいに悲しい思いをしたくない。 それが単なる自己満足でしかないことはわかっているけれど…… 山裾を西陽が照らしあげていく。 真っ白な桜の花は血のようにあかくくれないに染まっていく。空に浮かぶ雲とともに。 そして、ふたたびの桜吹雪が少女を襲う。 これ以上、呪文を唱えてはいけないとでもいいたそうに、花神の強烈な風が、吹き荒れる。 それでも少女は言葉を紡ぐ。必死になって祈りを捧ぐ。 ひとつに束ねていた長い髪は風に巻き上げられ、身にまとっている白藤色の袿の裾もひらひらと揺らめく蝶のように空を泳ぐ。いつ身体が吹き飛んでもおかしくない状態が、拷問のようにつづく。 禍々しいほどに鮮やかな、深緋色の時間が過ぎていく。すでに太陽は地平線の彼方へと姿を消し、入れ替わるように夜の世界を支配する黄金色の月が、喉を枯らした少女
* * * 「……死にそこなったか。忌わしい蛇だ」 桜吹雪の向こうで、一匹の蝙蝠が嘲るように鳴き声を発している。 その報告を耳に、男はつまらなそうに応える。「蛇がいるからには眠れる竜を無理に起こすこともない。標的を竜糸(たついと)から雲桜に変える」 思わぬ発見だった。 たいしてちからを持たない花神を土地神としている少数部族『雲』が暮らす山深くに位置する雲桜は男にとって捨て置くはずの場所だったからだ。まさかここで至高神の加護を持つ『天』に勝るちからを目の当たりにするとは。これは、放っておけない。「いまはこの、邪魔をした小娘がいる厄介な呪術を使う集落を落とすのが先だ」 雲桜の土地神を殺めれば、その地は瘴気に満ち、またたく間に深い闇へ人間を飲み込んでいくだろう。その絶望に打ちひしがれた人間どもを食餌できるのだ、余興にもちょうど良い。「そのあいだに、計画を練り直せばいい。まだ時間はあるのだから……な」 きぃきぃと、賛同するように蝙蝠が鳴く。気づけば少女に介抱された蛇は、姿を転じることなく澄み切った夜空に逃げるように消えていた。「正体を悟られるのを避けたか。まあよい。あの蛇を殺すのはあとの楽しみとしておこう」 だが、愚かな少女だ。土地神の制止もきかずに術を遂げるとは。これで花神も疲弊して、こちらの侵入に気づくのに遅れるだろう。 男は苦笑しながら蝙蝠に命じる。「いましかない。雲桜を、滅ぼせ」 * * * 息を吹き返し天空に姿を消した蛇を呆然と見送った少女は、暁降ちに起こる嵐の予兆など知る由もなかった。 そして、朝陽を拝む間もなく、故郷は滅ぶ。 雲桜を守護していた土地神、花神が幽鬼によって殺されてしまったから。 * * * 土地神が施した魔除けの結界は解け、悪鬼が美しい桜の園を蹂躙する。 桜の淡い芳香は喰い破られた人間の血肉の臭いに染め変えられ、白い桜もどす黒い瘴気に染まる。 繰り広げられる悪夢に、疑心暗鬼になった『雲』の民は罵りの言葉を吐く。「誰が禁術を使ったのだ……!」 雲桜を守護する花神の加護をもつ『雲』の民は、集落の誰かが禁忌とされる術を使ったために花神のちからが弱体化し、そこを鬼に付け込まれたのだと悟る。 だが、その原因をつくったのが齢九つの少女であることにはまだ誰も気づいていない。
少女は最後まで気づかなかった。 蛇は掌の上に乗せられる以前から、 すでに息絶えていたことに。 * * * 「――ここで、じっとしているんだよ。この悪夢が、終わるまで」 誰もが土地神の守護から引き裂かれ、逃げまどうことしかできずにいる。 そのなかで、少女だけが蚊帳の外へ放り出されていた。 術師である父親が施した、命がけの結界だった。「ヤダ、お父さんも一緒に……!」 「それはできないよ。いいかい。花神さまの遺志を継いで、生き延びるんだ。生きて、逆斎を頼りなさい」 「さか、さい?」「そうだ。|紅雲《べにぐも》であるお前には神術の才がある。雲桜が失われても、お前の身に宿る『雲』のちからは変わらない。それに『天』に連なる逆斎の人間なら、神でなくても鬼に勝てる」 父親が少女へ言葉を贈るあいだも、雲桜に暮らしていた人間は、次から次へと鬼によって葬り去られていく。ぬちゃりともぺたりとも言い知れぬ気味の悪い足音が、父親の背後に迫っている。 けれど、少女はそれを眺めることしかできない。 どす黒いおおきな爪が、父親に向かって振りかざされる。 悲鳴を押し殺して、首からどくどくと血を流しながら父親は叫ぶ。「お前は、土地に仕える逆さ斎に……!」 最期の言葉が溶けて消える。 少女はもはや声をあげることもできずにいた。双眸から滴り落ちる涙をぬぐうこともせず、悪夢の終焉をひたすら、待つ。 見知った雲桜の民がひとり、またひとりと鬼に喰われていく。元凶がどこにあるか真相に辿りつくを与えることなく、首を捥がれ、五臓六腑を引きずり出され、手足を噛み切られ、残虐に殺されていく。おびただしいまでの血が津波を起こし、神聖なる土地を穢していく。目を背けたいほどの光景。けれど少女は瞳を閉じない。忘れてはいけない。目に焼きつけて、離れないようにしなくては…… ――鬼を、倒せる人間に。逆さ斎に、なる。 いまは非力な自分だけど、いつか、雲桜のみんなの仇を討つために。 そう、強い決意を胸に秘めたまま、瞳に涙を溜めたまま、気が狂いそうになりながら見つめていたけれど。 少女の目の前に、燃え上がる炎に照らされ赤く染まった髪の少年が現れて、にっこりと微笑まれたところで、ぷつりと意識が途切れた。 「しばらくお休み。この胸糞悪い夢が醒めたら、キミに逢いにいく
――幽鬼(ゆうき)。 それは神と人間がともに暮らすこの北の大地、カイムに出現する人間に似た異形のものたち。 鬼と呼ばれることの多い彼らは暗闇を愛し神を選んだ人間に仇なす忌わしき存在である。 ときには人間の心の闇に巣食う闇鬼(あんき)を潜ませ、扇動し、争いと混沌に満ちた箱庭を作り、破壊することもある。 土地神に護られた人間を自分たちの玩具にし、大陸の神々を屈服させるべく、鬼たちは人間の寿命よりもはるかに長い、気が遠くなるほどの年月をかけて、いまもどこかで策謀を張り巡らせ、暗躍しつづけている。 奴らの魔手から逃れるため、古代の先住民であるカイムの民は、集落ごとに神との契約をさせ、土地神の加護という名の結界を施した。だが、あれから千年ちかくが経ち、神々の結界もまた、あちこちで綻びが生じているのが現状である。「……あれから十年ですか」 幽鬼による雲桜の滅亡は、カイムに暮らす他の部族たちにも衝撃を与えた。 古代の伝承でしか知らされていなかった幽鬼は実在し、いまもなお人間たちに害をなそうとしていたのだ。 どの集落も次は自分のところに来てもおかしくないと感じたのだろう、この数年で術師による結界はずいぶんと強化されたように感じる。 だが、土地神がひとと混じって暮らしている集落はまだいい。ここ、竜糸の地は、守護してくれるはずの竜神が、湖の底で眠りこんでいるのだ。それは、もう、何百年と……! 絹の浄衣をまとった神職の蒼い髪の青年は、水晶の縫いこまれた濃紫色の袿を纏った少女の前で、はぁと息をつく。土地神が眠りこけているせいで、とばっちりを受けている神殿の人間からすれば、神不在の状態で闇鬼だけでなく元凶とされる幽鬼の襲来をも警戒しなければならないのだ。下手をすれば雲桜の二の前になってしまう。 だが、青年の前に座る少女の表情はやわらかかった。 いちばん辛い立場にあるというのに、どこか楽しそうにも見えてしまう。「幽鬼がとらえる時間の感覚は人間のそれとはまったく違うわ。その点だけは神に近いとも言えるんじゃなくて?」「そうですね。ですが、おひとりで竜神さまの代理をつとめるのは、やはり無理があります」 「星河(せいが)。それでも、いま、代理神としてこの地を守ることができるのは、逆さ斎としてのちからを宿したあたくししかいないのよ」 「ですが、里桜(さ
「ここに、裏緋寒(うらひかん)を……花嫁を連れてきなさい」 「ですが」 「竜糸の土地神さまである竜頭(りゅうず)さまが眠りつづけて身動きのとれないいま、半神の不在は致命的なのよ。神としてのちからを補うためにも、竜頭さまの番になることが叶う裏緋寒の乙女は欠かせないわ」 里桜は自分よりあたまふたつ分おおきな星河に向けて、言い募る。「竜神さまとの対話なら、里桜さまおひとりで問題な……」 「いままでならそうしていたわ! でも、それは傍に大樹(たいじゅ)さまがいたから安心してできたことなのよ。彼がいない状態で竜頭さまの夢の中へ思念を飛ばすなど、結界を自ら破るのと同じこと。大樹さまが消失されたのが知られれば、幽鬼どもはこの竜糸の地に押し寄せてくる。それを阻止するためにも……」 「生贄にするのか」 冷めきった声がふたりの間に割って入り、里桜と星河は目を見合わせる。 物音をたてることなく神殿内部に入ってきたその男は、夜を彷彿させる黒い外套を脱ぎ捨て、星河と同じ白い浄衣の姿になると、不本意そうに里桜の前に跪く。「――夜澄(やずみ)」 「この土地に暮らす乙女を竜神が眠る湖に捧げてまで、逆さ斎の里桜サマは幽鬼の魔手を退けたいご様子。そんなことをしても、竜頭は喜ばないぜ?」 「……それでも、大樹さまの穴を埋めることくらいならできるでしょう?」 「まあ、表緋寒(おもてひかん)の里桜サマのご命令なら、従いますけどね」 「夜澄!」 星河に一喝されても夜澄は態度を変えない。土地神が眠る竜糸を実質上守護する代理神である里桜を支える立場にある桜月夜の守人のなかで、彼だけは竜頭のみに忠誠を誓いつづけている。彼の代理でしかない人間を敬うなど無駄だと一蹴しつつも、竜頭が愛する竜糸を護るためだと守人の任務をつづける夜澄の主張もわかるので、里桜はあえて怒りはしない。「言葉が足りなかったようね。あたくしは裏緋寒の乙女を生贄にするつもりはなくてよ? とりあえず神殿に彼女をお招きしたいの。そうすれば、竜頭さまだって……」 ――表と裏の緋寒桜が揃いしとき、隠れし土地神は桜蜜(おうみつ)を生み出す神嫁を欲して降臨する。 星河は里桜の意図に気づき、顔面を蒼白させる。「眠っている土地神を強引に起こそうというのか!」 ここ何百年も眠りつづけている竜糸の土地神を、目の前にいる少女は
* * * 神殿の離れにあるこぢんまりとした室(へや)が、朱華が身を置く場所になった。ちいさいながらも装飾は凝っており、真珠の粉を混ぜ合わせたような白い光沢感のある壁には姿見のようにおおきな円形の窓がつけられている。蔦模様の窓枠のなかへ手をのばせばそこは空洞になっておらず、空気のように透明で薄い玻璃が膜を張っているかのように填めこまれているのが確認できた。窓の向こうには竜神が眠る湖と蕾から花へと姿を変えつつある白や薄紅色の菊桜の樹々がよく見える。 外つ国より海を渡ってやってきた硝子細工はまだ高貴な人間にしか許されない、珍しいものだというのに、竜糸の神殿では至る所に硝子が使用されている。壊さないように気をつけなければと場違いなことを思いながら朱華は備え付けの寝台の上へさきほどまで着ていた衣を脱ぎ捨てていく。 さきほどの身体検査などまるでなかったかのように夜澄は自分に接しているため、朱華もひとまず気にしないようにふるまっている。さすがに自分の秘処を舐められるとは思ってもいなかったけれど…… そんな夜澄は朱華のことを雨鷺に頼んで、室の外の扉の前で待っている。 軽く夕食をいただいてからあらためて雨鷺に身支度を手伝ってもらった朱華は、いっそう華美な猩々緋(しょうじょうひ)の糸で刺繍された菊桜が咲き誇る月白(げっぱく)の袿に着替える。 「……なに?」 「いや。馬子にも衣装だ……」 「悪かったわね!」 着替えを終えた朱華は夜澄に連れられて神殿へ戻る。そして代理神が座す湖畔の間に入った。 硝子が張り巡らされた壁の向こうには、竜神が眠る湖と、湖に反射しながら煌々と輝く銀のふたつの月がゆらめきながらも鋭い刃物のように交差している風景がのぞめる。その月明かりに照らされるように、室内もまた、ゆらぎと淡いひかりを帯びている。陽が沈んだとはいえ、月のひかりが存分に入るこの空間は、夜を忘れさせるほど、眩しかった。 遠目から見ても鮮やかな袿姿の少女が、朱華の姿に気づき、顔をあげる。 朱華は俯いた状態で一歩一歩、夜澄に手を引かれながら、しずしずと里桜の前へ進んでいく。
「どう思う?」 「……なんで振るんですかわたしに」 朱華を襲った巫女を地下牢へ入れたのち、里桜への報告のため颯月とともに訪れた星河だったが、ほとんど言いたいことは言われてしまった。残された星河は里桜の言葉を受けて、硬直している。「客観的に物事を分析するためにあなたの意見もききたいと思ったのよ」 「そうですか」 なかば諦めたように星河は笑う。自分より十近く年齢の離れた少女に言われても説得感があるのはやはり選ばれた代理神の半神だからだろうか。「ですが、わたしがどう思おうが、里桜さまはそのままでいいとお考えでしょう?」 裏緋寒として神殿に入った朱華には自分の加護に関する記憶が失われていたという。カイムの土地神の加護のことを、逆さ斎の里桜は浅くしか知らない。大樹がいないいま、知識を与える適任者は竜頭が起きていた頃を知る夜澄しかいないのも事実だ。里桜は頷いて、話を変える。「はぐれ逆さ斎が記憶を改竄したんですって? 至高神に逆らってまで、彼女を自分のモノにしようとしたなんて……」 それともこれも、至高神が采配を施しているのだろうか。いまここに大樹がいれば真意を問えるのに。里桜は悔しげに口元を歪める。「その逆さ斎なら、颯月が瘴気を払っております。問題はないかと」 「大ありよ! 代理神が不完全ないま、瘴気を払って放置しただけなんでしょう? ……すでに竜糸の結界は綻んでいる。払っても払っても根本を断たなければ同じことを繰り返す可能性がある……もし、裏緋寒を諦めきれずに彼が自ら闇鬼のために瘴気を取り込んだら?」 相手は逆井の姓を持たないとはいえ、自分と同じ逆さ斎だ。ひととおりの術式も扱えるに違いない。記憶まで操ることが可能なことを考えると、至高神に預けられたちからを持つ朱華を保護していたという未晩はかなりの術者のようだ。まぁ、それだから裏緋寒の番人として至高神に重宝されたのかもしれないが…… そんな未晩が、神殿に乗り込んできたら……大樹がいない、竜頭が眠ったままの状態で対抗するのは厳しいだろう。そう指摘されて、星河の表情が青くなる。「……それは」
* * * 「それだけですか?」 「夜澄が彼女の面倒をみてくれるというのなら、あたくしがしゃしゃりでるのもどうかと思うわ。守り人が神嫁を教育すること自体、別におかしなことはないでしょう?」 里桜は神殿内で闇鬼に堕ちた人間が現れた報告を颯月から受け、ついに来たかと嘆息する。しかも裏緋寒の乙女として迎えたばかりの少女を殺そうとしたという。桜月夜によって辛うじて難を逃れたというが、この先も同じようなことが起きる可能性は高い。土地神の花嫁となるものなど、幽鬼にとってみれば邪魔でしかない。彼女の正体が知れれば、眠ったままの竜頭より先に葬ろうとするだろう。 そこで夜澄が珍しく自ら彼女の護衛につくと言いだしたらしい。ふだんは厄介なことほど星河や颯月に押しつけてふらふらしているくせに、と反発を覚えながらも、桜月夜のなかでいちばん強いちからを持っているのは彼だったなと里桜は思い直し、素直に受け止める。彼が裏緋寒の乙女を護る気でいるのなら、任せた方がいいだろう。竜頭の花嫁となるであろう少女だ、意地悪などしないと思いたい。 だが、颯月はすこしばかし不満らしい。たしかに、大樹が不在のなかひとり代理神を務める里桜よりも裏緋寒の乙女を優先する姿は、神殿内でも疑問の声があがるだろう。このまま彼が裏緋寒の乙女を自分のものにするのではないかと危惧する声がでてくるのも時間の問題かもしれない。きっと颯月もそう思ったから、里桜に意見したのだ。 裏緋寒の乙女が眠りから醒めた竜神の花嫁にすんなりおさまるためにも、夜澄ひとりにまかせっきりにするのが不安だから、颯月は里桜の前で途方に暮れた顔をしているのだ。「でも……」 「颯月。あなたは夕暮れまで引き続き大樹さまの居場所をあたってみてほしいわ。『風』の加護を持つあなたしか、長い時間集落の外をでて動くことができないのだから」 桜月夜だからといって、常に一緒に行動する必要はない。それぞれが持つ加護のちからを最大限に生かして、この危機的状況を打開する方が大切である。 それに、過去を知る夜澄が過激な花嫁修業をひとりで担ってくれることに、どこかでほっとしている自分もいた。土地神と契る
――けれど朱華はもう、ここのつの幼子ではない。「それまでにあたし、記憶を思い出す。それで、里桜さまとともに竜神さまを起こすから!」 未晩に甘やかされたまま、怖い夢や漠然とした不安など、いままで彼が飼っていた闇鬼にぜんぶあげていたけれど。 それじゃあいけないんだとぎゅっと拳を握りしめる。「そしたら、戻ってきたちからを使って大樹さまを探すお手伝いもするし、竜神さまに認められる花嫁になれるよう修業も頑張る!」 目の前にいる彼に誓いたかった。迷惑だと思われても、声にだしてこの決意を伝えたかった。竜神が眠りにつく前から守人をしている彼のために、心の底から役に立ちたいと思ったのだ。「お前……なぜそこまで」 困惑する表情の夜澄を見ても、朱華の気持ちは変わらない。彼が自分たちの『雲』の民を見捨てたことを後悔している姿を、責めるのは見当違いだ。そんなことをしても死んでしまった命は還らないのだ。それならいま、自分にできることをして、雲桜のような悲劇を防ぎたい。「なぜって。もう誰にも死んでもらいたくないからよ?」 当然のように返す朱華に、夜澄が呆気にとられている。 もう誰にも死んでもらいたくない。朱華の心の奥底から自然と湧きあがるように生まれた言葉。 それは記憶がない状態でも、揺らぐことのない、本心だった。「――ならばまずは、お前が真実(まこと)に桜蜜を分泌させる処女(おとめ)たるか、この場で確認させてもらおう……下衣を脱いでくれ」 「……えっ」 そんな朱華の覚悟を前に、夜澄が申し訳なさそうに宣言する。 そして、座っていた椅子から立ち上がり、朱華に被せていた己の上衣を剥ぎ取り、脚をひろげさせる。 恥ずかしい格好のまま、下半身を晒せと命じられ、朱華は目をまるくする。けれど、竜神の花嫁になるためには必要なことなのだと理解し、菫色の瞳を潤ませたまま、言われるがままに下衣をおろす。 夜澄によって治療された場所が、妙に疼く。「さわるぞ……まずはちいさくて可憐な花の蕾から」 「……あっ、そこはだめっ…
「え、じゃあ、裏緋寒の乙女ってのは竜糸の竜神さまの花嫁って意味ではないの?」 「表緋寒と裏緋寒はカイムの神殿用語だ。表緋寒は神職者として土地神に仕える女性や、土地神の加護が強い既婚女性。神嫁の別称でもある裏緋寒というのは神職者ではないが強い土地神の加護と神々を悦ばせる桜蜜を持つ未婚女性で……率直に言えば神の子を孕める器の持ち主のことだ。だから集落によっては神に弄ばれる愛玩花嫁などと蔑む場所もある」 「それで、師匠も知っていたのね」 未晩が逆さ斎なら、神殿用語にも詳しいはずである。「だろうな。神無の地を離れたはぐれ逆斎のようだが、お前を大事に扱っていたことを考えると、至高神が彼にお前を託したのかもしれん。あの天神は目的のためならどんなことでもするからな……」 ぼそりと呟く夜澄のぼやきを朱華は聞き逃していた。至高神が自分に関わりを持っていると明かされた時点で、すでにあたまのなかはぐちゃぐちゃになっているのだ、これ以上あれこれ言われてもすべてを飲み込めるほど朱華は器用ではない。「……と、とにかくカイムの集落の土地神の後継をもうけるため、至高神が竜糸の眠れる竜神さまの花嫁として、もうすぐちからを返却する予定のあたしを指名したってこと?」 まあな、と首肯しながら夜澄は苦い顔をする。「だが、逆さ斎が記憶を書き換えたことでお前は自分が何者かわからないまま、今日まで来てしまった。おまけに、お前のちからが預けられた状態のまま、半神である大樹さまが行方知らずになってしまった……いま、竜糸の結界は表緋寒ひとりで保たせているのが現状だ」 「だから、瘴気が神殿内にまで侵入しているの?」 「それにしては瘴気の量が多いのが気になるが。すでに幽鬼に気づかれた可能性も考えておかねばならないな」 「そんな」 ほんのすこし負の感情に傾いただけで、闇鬼に憑かれて自分を殺そうとした巫女を思い出し、朱華は身震いする。それを怯えと捉えたのか、夜澄は子どもをあやすようにそっと、彼女の玉虫色の髪を梳きはじめる。「もう、ひとりにはしない。お前が竜頭の花嫁として迎えられるそのときまで、桜月夜の総代として、俺が護
「――ああ」 息をのむ。 半ば強引にこじ開けられていく記憶の抽斗から、ぽろりぽろりと朱華の脳裡に断片が溢れだす。 いまから十年前。 朱華の両親は竜糸を襲った流行病で死んでしまったと未晩は言っていたけれど……それは、嘘だ。 雲桜の花神。 朱華は彼のことを知っていた。 茜桜。 彼こそが、自分の生まれ故郷の土地神、で――…… 「竜糸の竜神、竜頭は、茜桜と親しかった。だから、雲桜が幽鬼によって滅ぼされた際に、神殿は落ちのびた『雲』の民を匿った。当時の代理神は加護を失った彼らに『雨』のちからを分け与えたため、彼らはちからの弱いルヤンペアッテとなった」 「……あたしも、そのルヤンペアッテの加護を少しだけ分けてもらったんだね」「だが稀に、土地神が死んでも産まれた集落の加護を失わない人間もいる。お前の『雨』の加護のちからが微弱なのは、『雲』の加護を失うことなく竜糸の地に辿りついたからだろう」 「土地神が死んでも、加護が消えないなんてことがあるの?」 「ああ。雲桜が滅んだとき、竜糸では流行病が蔓延していた。『雲』の加護は治癒術に秀でていることから、代理神は加護を失わずに済んだ『雲』の生き残りに病の治療をさせたのさ」 未晩が朱華に言っていた、竜糸で十年前に起きた流行病というのは嘘ではなかったようだ。うん、と頷く朱華に、夜澄は自嘲するように言葉をつづける。「神殿は集落を失った難民を引き取るかわりに、『雲』のちからを自分たちのものにしようとした。でも、それは一時的なものでしかなかった。『雲』のちからは『天』に等しくときに世界を動かすんだ。竜神が眠った状態で竜糸の神職者たちが求めてはいけないちからだったのさ」 世界を動かすといわれる『雲』のちから。そして、それを欲した竜糸の神殿勢力。けれど、夜澄の言葉は、『雲』のちからを神殿が取りこむことに失敗したことを示していた。「それってどういう……」 「病の終息とともに、『雲』のちからを持っていた生き残りが死んでいった。病人が持っていた瘴気が、集落を滅ぼされ
「ふうん。夜澄は詳しいんだね」 「俺があの三人のなかでいちばん古株なだけだ」 だから自然とお前の面倒を押しつけられるってわけだな。と、毒づきながら、夜澄は朱華が被った浄衣をぺろりとめくると傷ついた身体に治癒術を施しはじめる。露わになっ太腿に夜澄の手があてられ、朱華は慌てて撥ね退ける。「こ、これくらい平気だって!」 「あいつらは俺にお前の事後処理を任せて出て行ったんだ。おとなしく治療されろ」 「治癒術ならあたしひとりででき……痛っ」 「血が止まってないのに興奮するからだ。それに、さっきまで闇鬼とやりあってちからを使っただろう? 消耗してるときに自分で治癒術をかけたりしたら逆に回復が遅くなるぞ」 「……はーい」 赤面したままの朱華は渋々頷き、夜澄に身体を寄せる。緊張しているのが伝わったのか、夜澄は朱華の手を取ると、室の奥に並ぶ石の箱に連れていく。どうやらあれは椅子だったらしい。 朱華を座らせ、夜澄は手際よく術を発動させていく。太腿に負わされた傷だけでなく、身体中を掠ったちいさな傷も、夜澄が唱えたどこか懐かしさを抱かせる言葉によってあっという間に消えていった。彼もまた、古き時代の神謡を深く識る神に携わる人間なのだと朱華は痛感し、ふと疑問に思う。「あの」 「なんだ?」「夜澄は、いつからここにいるの」 桜月夜の守人のなかでいちばん古株だと口にしていたのを思い出し、朱華は問いかける。夜澄はしまった、というような表情を浮かべたものの、朱華の問いに正直に応えを返す。「竜頭が眠りにつく前から」 「……それって、百年以上前のことでしょ? 冗談」 「冗談だと思いたければそう思えばいい。でも、俺は竜頭のことを知っているし彼に頼まれたからずっとこの地で結界を護る代理神の補佐をつづけている」 琥珀色の瞳は淋しそうに煌めき、黙り込む朱華をしずかに見下ろしている。「だから、大樹が消えたいま、お前が必要なんだ」 ――竜神の、竜頭の花嫁になってくれ。 夜澄が朱華の前へ跪き、切実な想
「……まさかこんなところまで鬼が侵入しているとはな」 颯月に助け出された朱華は悔しそうに呟く夜澄の言葉に顔を向ける。「えっと、それってどういうこと?」 氷の刃によって切り裂かれた袿をぎゅっと抱きしめて、朱華は尋ねる。夜澄は自分が着ていた白い浄衣を無言で脱ぎはじめ、ひょいと朱華に投げつける。「そんな恰好でうろちょろするな」 「……す、すいません」 闇鬼に襲われた朱華の恰好は見るも無残な状態になっている。長身の夜澄の浄衣を受け取った朱華は慌てて被り、素直に謝る。「いえ。謝るべきなのはわたしたちの方です。神殿内だからと貴女をひとりにしてしまい、このような目に合わせてしまうとは……」 「ごめんね。もうこっちに来てるとは思わなかったからさ」 どうやら桜月夜は朱華がまだ雨鷺とともに身支度をしていると思っていたらしい。そのため里桜との面会の場に入る前に別の場所で一仕事していたようだ。そこで闇鬼の気配を感じた颯月が飛び込んできたということだろう。朱華は平気だと首をぶんぶん振って言い返す。「あ、あたしは大丈夫です! こう見えても神術はひととおり取得してますし、身のこなしだってふつうの女の子に比べたらぜんぜん」 「震えてる癖に何強がってんだよ」 小声ながらも厳しい夜澄の言葉が投げつけられ、びく。と、朱華の肩が反応する。 けれど、その声はすでに闇鬼に堕ちた少女の処遇について話しはじめた他の桜月夜の耳には届いていないようだ。「そ、そんなこと……」 慌てて夜澄に反論しようとして、朱華は言葉を切る。夜澄の琥珀色の瞳が、険しく揺れていた。「神殿内には竜頭……竜糸の竜神さまの名だ……の花嫁に選ばれたお前のことを素直に受け入れられない人間もいる。それに、瘴気を塞ぐ結界が緩んでいることもあって、この神殿にも悪しき気配が侵入しやすい状態になっている。さっきお前を襲った巫女はお前さえいなければ自分が竜頭の花嫁になるのだと潜んでいた闇鬼に囁かれでもしたのだろう」 神殿に仕える巫女は土地神にすべてを捧げる運命にある。彼女たちが土地
「貴女が邪魔だからよ。裏緋寒の乙女」 目をこらして正面を見つめると、そこには白い浄衣に緋色の袴を着た少女が立っていた。神殿に仕える巫女のひとりだろう。朱華が少女に気づいたのを見て、ふんっと少女は嘲るように鼻を鳴らす。 そして、朱華が唱えたのと同じ、風の古語を唱える。 瘴気は一瞬で霧散した。だが、その瘴気を浴びた少女の瞳が禍々しいまでの赤へ色を変えていた。 「……闇鬼」 負の感情に引きずられて生まれる瘴気を糧に、人間に寄生し支配する異形のモノ。 一説には幽鬼が神々に対抗するために生み出したとも言われる、心の闇を巣食う鬼。 それが、目の前の巫女装束の少女に、憑いている。未晩のように、飼いならしているのとは違う、すべてを喰われて自分を見失った状態だ。 血のように赤黒い双眸が、朱華を睨みつける。 獲物を見つけた闇鬼は妖艶な笑みを浮かべて襲いかかってきた! 「――竜糸の土地神であられる竜頭さまの花嫁など、認めるものか!」 即座に朱華は跳躍する。雨鷺が着飾ってくれた白菫色の袿をゆらゆらはためかせながら、恨み事を叫びつづける巫女の攻撃を避けていく。『雪』の加護を持っていたのか、巫女が繰り出す術は氷の飛礫を投げつけるものだった。「そんなこと言われてもっ! 一方的に選ばれたあたしの身にもなってよ!」 朱華の想像以上に素早い身のこなしに相手も焦りを見せたのか、氷の飛礫の数が増えていく。火を召喚して反撃しようにも、増えつづける氷の塊は容赦なく朱華にぶつかっていく。ひとつひとつの塊はちいさくても、ぶつかると溶けることなく突き刺さったまま残ってしまう厄介な凶器は、朱華が気づかぬ間に袿を切り裂き、白い肌を露出させていた。そこへ鋭利な氷の刃が掠り、舞っていた朱華の身体を傷つける。「痛っ……!」 太腿からつぅと赤い血が流れ、石の床に叩きつけられたのを見計らったように、巫女が手にしていたおおきな氷の剣を朱華の胸元へ下ろされていく。 ――殺されるっ!?